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意識と動きの原理
2016年01月01日 18:29中国の書画界には
「意在筆先、力透紙背」
筆の先に意識が宿ると、紙の裏に浸透するほどの筆力になる。
という言葉があり、
拳学界には、
「意在指先、力透敵背」
指先に意識が宿ると、敵の背中まで突き通すほどの力が出る。
という言葉があるそうです。
また、書の筆使い、拳法の身体使いに関しては。
「欲上先下、欲左先右、欲前先後」
上に動かしたいと思うならばまずは下を、
左に動かしたいと思うならばまずは右を、
前に動かしたいと思うならまずは後ろを動かしなさい。
という教えがあるそうです。
稽古で氣をつけている事柄の一つです。
りきみについて
2015年12月29日 17:14「そこでりきまないように」
「もっと力を抜いて」
稽古をしているとよく聞く言葉です。
なぜりきんだら駄目なのでしょうか。
なぜなら、りきんだら氣の力が止まるからです。
氣の力が止まったら筋力になります。
筋力になったら、相手がその筋力に反応して抵抗します。
どんな小さな力でも、筋力を使う限り相手には抵抗が起こります。
ところが氣の力を使い続けることができれば、相手の抵抗は起こりません。
氣の力は相手の抵抗を起こさせない力だからです。
しかし、相手に強くつかまれたり、相手をつかんだりした場合に氣の力を使い続けることは至難のわざです。
どうしても筋力が顔を出します。
とくに相手を倒してやろうとか、やっつけてやろうとする意識があるとりきみやすくなります。
では、りきまないためにはどうしたら良いでしょうか?
その方法の一つが、やさしく、ていねいに、ゆっくりと動くことです。
やさしく、ていねいに、ゆっくりと、りきんで動ける人はあまりいないと思います。
意識の持ち方が、とても大事です。
りきみについての佐川先生の言葉を紹介します。
「ただでさえりきむのだから、稽古ではりきまぬよう特に努力しなければならない。」
「りきんでいないから出来るのだ、りきんでいたら出来ないのだ。」
「りきまないで正確にやるのが上達の早道なのだ。」
「力を入れてつかむということは、敵を倒れなくしてやっているのと同じである。」
「りきんだ力なんて自分が感じるだけで相手に何ら影響を与えない。単なる自己満足だ。そういうことなんですよ。」
「手を張り肩の力を抜く」
2015年12月15日 15:35吉丸慶雪先生は、その著「合気、その論理と実際」1997年ベースボールマガジン社刊の最後に、次のように書かれています。
本書について
近年にいたり合気とは何かという問いに対して、何とか答えを書くことが出来た。
いま昔のノートを見ると(佐川幸義)先生の教えが次のようにある。
1965.1.25 合気あげ手
一本になって出る。手を張り肩の力を抜く。これは非常に難しいことであるが、これを乗り越えなければならぬ。わしたちもこれを乗り越えてきたのだ。
このように「手を張り肩の力を抜く」と65年に教わっているが、現在分かったことは、要するにそれができればよいのだということである。
この「一本になって出る。」「手を張り肩の力を抜く。」ということを説明するために、この一冊の本をつづっているのである。これが分かったのが最近である。
先生は教えて下さっているのだが、私の体がそれを理解するのに30年掛かったということなのである。
ちなみに、この本は324ページあります。
合気を修得する上での極意の一つと捉えて、精進します。
「透明な力」 佐川先生語録抜粋
2015年12月10日 09:22佐川先生語録は、御自身の永い間のたゆまぬ鍛錬から出た言葉であり、それだけに本当に心に響くものがあります。
私は、本を読んで気になったところには線を引いたり、蛍光ペンで塗りつぶしたりする癖があるのですが、この語録は全部を塗りつぶしたいほどです。
この本をまだ読んだことのない方のために、ホンの一部を抜粋して紹介したいと思います。
「力が強いものはやりにくいというのでは合氣ではない。くずしは合氣の一部だが全てではない。考え方がまるで違うから頭を使わなければならない。頭の悪い人には絶対に合氣はできないのだ。」
「合氣がなければ年をとったらできない。」
「合氣は集中力とか透明な力とかいうような、いわゆる力とは違うものである。合氣は敵の力を抜いてしまう技術だからである。そのうえくっついて離れないようにもしてしまうのだから大変なことである。」
「合氣が分かってから本当の修行が始まる。」
「七十歳代の時に合氣はものすごく進歩した。人生七十代は一番研究がはかどるときだ。」
「私は身体がちょっと動けば、相手は力が入らなくなってしまう。」
「合氣は技術であるから年と共にうまくなっていくが、時間もまたかかるのです。長い時間をかけてやるべきものなのです。」
「特訓なんて何にもならない。毎日毎日一生鍛え続けるのだ。それが修行というものだ。」
「七十歳まではやれば筋肉もついてくる。それまでに体を作ってしまえば、このように八十歳を過ぎても全然衰えないのだ。」
「(技が)効かないという苦しみを乗り越えていくのが大事なのだ。」
「背の高い者とか大きい者とかやりにくい者たちとどんどんやるのだ。うまくいかなくたって気にすることはない。やっているうちにいつかできるようになる。やるのが難しい人は自分の先生と思っていろいろ研究するのだ。」
「技が効かないなんて言うのは、恥でも何でもないのだ。」
「長い間の努力、工夫によって少しづつ出来るようになってくるのだ。巻物を見たら出来るとか、極意を授かったら出来るというものではない。小さい時から漫画や映画でそんな話を聞いているから信じてしまうのだが、そういう人は少なくともその面では頭が悪いとしか言えない。」
「(鍛錬について)いつからでも始めようと思った時から始めるのだ。遅いということはないのだ。私の場合でも今こういう運動をした方が良いと気付いたら八十歳過ぎた今からでも始めますよ。昔のことを言っていても仕方がない。」
「力でやるのは駄目だ。力でやるのは下手なのだ。力でないところでやるのが大切なのだ。」
「姿勢はまっすぐになっていなければいけない。前かがみになってはいけない。これは大事なことだ。」
「決してこれで良いと思ってやってはいけない。これではまだまだと思いながら研究を続けていくのだ。私は九十歳を過ぎてもまだ研究を続けているのだ。五十歳や六十歳でこれで良いなどと思ってはいけない。」
耳の痛い言葉ばかりですが、この本を読んでおられない方にはぜひ御一読をお勧めします。
「透明な力」 不世出の武術家 佐川幸義
2015年12月06日 19:54木村達雄先生著 講談社刊の本の題名です。
合氣に興味のある方なら、おそらく一度は読まれているのではないでしょうか。
私は、特に佐川先生語録に感銘を受け、1995年に購入して以来20年間、折にふれては読み返しています。
この本は、何かを極めたいと考えておられる方には必携の書の一冊だと思います。
昔は、この本をかなりたくさんの方に勧めたもので、売り上げに多少は貢献したかも知れません。
今、改めて読み返しても全ての言葉が心に響きます。
「私のやっているものは武田先生の合氣から出たものではあるが、さらに発展して全然違うものになってしまっている」
「私だってもし武田先生に教わったことだけをやってきたら、全然たいしたことないでしょう。その後いろいろ工夫研究して発展に発展を重ねてここまで来たのだ。私のは、大東流の合氣から出発してきているけれども、もう全然違うものになってしまっている」
「自分のやり方が一番良いと思っていても、自分だけのやり方で行くと井の中の蛙になり、どうしても偏ってしまい、足が弱いとか何かの欠点が出てくる。他流のものでも、どんどん研究して、良いものは、どんどん取り入れていかないと大きく発展しない」
「先生しかできない、先生は特別だ、という考えでは決して上達しない。同じ人間が出来るのだから必ず出来るはずだ、という考えを基にして研究すれば、出来るようになると私は思う」
防府合氣研究会を発足して3カ月余。
これらの言葉を念頭に稽古に励みたいと思います。
太極拳交流会優勝!!
2015年10月19日 22:2710月17日(土)から10月20日(火)の間、ねんりんピック おいでませ!山口2015が山口県で開かれています。
ねんりんピックとは、全国健康福祉祭の愛称で、高齢者の健康増進、愛好者同士の交流を図ることを目的としたスポーツレクレーション大会のことだそうです。
参加資格は60歳以上で、1988年(昭和63年)から各都道府県持ち回りで年1回開催されているということです。
私は今まであまり馴染みがなかったのですが、今年のねんりんピックに当会副代表の妻が、県代表の太極拳チームの一員として出場するということで身近なものになりました。
太極拳の競技は集団演武のみで、下松市市民体育館に於いて10月18日(日)に開催され、北は北海道から南は沖縄まで、全国から59チームが参加して演武を競い合いました。
会場には観客の方がたくさん来られており、太極拳愛好者が多いことを感じました。
私の後ろの席の女性3名は、昨年の開催県の栃木県から応援に来られたということでした。
この大会で、何と妻の所属するチームが優勝してしまったのです。
大会出場を目指した1年半前から、この日のためにチーム7名が一生懸命練習に励んできたのは、時折拝見していたのですが、まさか全国規模の大会で優勝するとは思ってもいませんでした。
私は太極拳のことはよくわかりませんが、素人目に見ても7人の息がぴったり合って、日頃の練習の成果が感じられ、たくさんの観客を魅了する、優勝にふさわしい素晴らしい演武だったと思います。
ちなみに県代表の2チームのうち、もうひとつのチームも準優勝でした。
本当におめでとうございます。
ねんりんピックを見るのは初めてだったのですが、大先輩の方々が真剣に、元気に演武されている姿には感動するとともに、頭が下がりました。
また、この競技の企画運営に携わった山口県武術太極拳連盟の皆さまには、本当にご苦労だったと思います。
会場では大変お世話になりました。
ありがとうございました。
死ぬ時が一番強い!
2015年10月08日 10:122013年6月16日の記事です。
合気道の開祖 植芝盛平先生は、「自分が一番強い時は、死ぬ時だ」とおっしゃったそうです。
死ぬ時とは、いつの事でしょうか?
今でしょ!
少し古いですが、決して冗談ではありません。
近い将来か、遠い将来か分かりませんが(できれば遠い方が望みですが)、
「自分が死ぬ時」
その時は「自分にとってはまさに今」なのです。
人生は、「今」の連続です。
全ての生きとし生けるものは、「今」死ぬのです。
ということは、「死ぬ時が一番強い」とは「今が一番強い」と言い換えることができると思います。
「死ぬ時が一番強い」=「今が一番強い」
私は還暦を過ぎたジイさんですが、もしも今、10代、20代の体力・気力・筋力共に自信満々だった頃の私に両手をがっちり掴まれたとしても、何の苦もなく笑いながら、若い自分を崩して投げ飛ばす自信があります。
もちろん10年前の自分でも、1年前の自分でも。
一番の強敵は、直近の自分だと思います。
これは何も私に限ったことではなく、「氣の力」とか「合氣」といった体力・筋力に頼らない武術をある程度修行されている方には、共通の思いでしょう。
これから先、何年稽古できるか分かりませんが、合氣の稽古を続ける限り、どんなに高齢者になろうと「今が一番強い」状態を維持できる確信があります。
植芝盛平先生のレベルとは、天と地以上の差があることは百も承知ですが、この先、年を重ねて老いさらばえていくばかりの我が身にとって、このような思いを持てるということは、私のこれからの人生に大きな夢と希望を与えてくれます。
この思いは、この記事を書いて2年以上経過した今でも変わることはありません。
「拳聖 澤井健一先生」
2015年09月30日 20:56今日は、「氣の力を求めて その2」で紹介した「拳聖 澤井健一先生」 佐藤嘉道氏著 1982年2月 スポーツライフ社 を読み返しています。
この本は私の人生に大きな影響を与えた本の中の一冊です。
澤井健一先生は、中国武術「意拳」の創始者である王向斉師の下で修行を重ね、日本に帰国後、大気至誠拳法(太気拳)を創始された武術家です。
今回は、私の若き日に、私が目指すべき老人の姿を教えてくれた澤井先生の言葉を紹介したいと思います。
少し長いですが引用させていただきます。
「年老いて光るもの」
人間の一生は、長いようでいて段階的、たとえば幼年時代、青年時代というように分けると短いものである。
若いうちは無我夢中で過ぎていってしまうが、ある年齢まで来ると淋しいものである。
さらに悪いことには、その淋しい状態を若い時には分からないということである。
生涯の大半を仕事に生きる人間にとっては、その現役を退く時、誰でも迷いがあるものだ。
すなわち、会社でも定年になり退職すれば、次の日には何かしなければならない。
誰でもが若い時には、六十代に近づけば、それを人生の終末だと考えている。
これは大きな誤りである。
これもまた、人生の一段階にすぎないのである。
五十五歳からでも、六十歳からでも(たとえ退職しようとも、たとえ伴侶が死のうとも・・・・)人間は、生が終わるまで生きなければならない。
そこに大きな問題がある。
老年を孫の面倒をみることや、庭いじり、散歩などで平穏無事に過ごすことによって満足できるという人もいる。
しかし、わたしはこの年齢だからいうのだが、そんな余生を送る人間にはなってもらいたくない。
なぜなら、若い時も、年老いても同じ人生に変わりはない。
燃え尽きるまで、生き生きとしている人間の方が美しい。
それには、若い時も年老いた時が来ることを考えて行動しなければならない。
年老いてから何かをしようとしても簡単にできるはずがない。
身体も昔のように動ける訳ではないので、旅行をしたとしてもすぐに疲れて、美しい景色に感動することさえ薄らいでくる。
やはり若いうちからの準備が必要なのだ。
この準備を怠れば、死を待つだけの老人となる。
こういう老人にだけは、わたしはなりたくない。
人間は、普通に生活だけしていると五十代にはもう若者に相手にされなくなる。
いわば人間社会で道の端に置かれたようなもので、さらに六十代になれば、完全にそうなる。
ひどい場合には話にも加われなくなり、「どうせ老人だから」と行動範囲も狭くなってしまう。
しかし、年老いても社会福祉とか若者の指導などで生き生きと活躍している人がいる。
そんな人になりなさい。
そういう力を持てる人になりなさい。
そこには光がある。
輝いているものがある。
君達が太気拳を学べば、光あるものになれることを私は約束する。
武術の先生を評価するのはむずかしいことではない。
話だけの先生もいる。
しかし、実際に動いてみればすぐにその先生が、どのくらいの力があるか判断できる。
昔がどうだったか(若い頃は強かったなどということ)というのは問題ではない。
問題なのは、現在どれだけの技を持っているかということである。
現在動ければ、若いものを指導できる。
そういう世界である。
すなわち、人生の最後のご奉仕も出来るというものである。
若者と接していれば、身体は年老いても精神は年をとらない。
年老いて活躍できる人と、若者にも相手にされない死だけを待っている人では天と地の差がある。
そして、その年老いてからの人生というか、期間は意外と長いものである。
「年老いて光るもの」・・・・・・・ぜひ、そのことを理解して身につけていただきたい。
(澤井先生が67,8歳頃のお話)
三十四、五年前の話ですので、今の年齢の感覚とは十歳以上の違いが有るようには思いますが。
私は、恥ずかしながら腰が引けて太気拳に出会うことはありませんでした。
しかし、このような老人になりたいという思いを持ち続けたおかげで、あの苦しい基本功に耐えて、氣の力・合氣の稽古を続けることができ、現在に至っています。
武道の原点
2015年09月28日 21:39今日はスーパームーンだそうです。
窓の外へ目をやると、雲の隙間からいつもよりひときわ大きく明るいお月さまが見えます。
空気が澄んできれいです。
秋の夜長、昔購入した武道・武術関係の本をいろいろと引っ張り出して、暇にまかせて読んでいます。
今読んでいるのは、心道流空手、宇城憲治先生の「武道の原点」 2000年6月 合気ニュース刊。
武道に対する姿勢、技術等に関し参考になることが満載です。
久しぶりに読んで、心に響いた部分を抜粋して紹介したいと思います。
「今は、力を抜くことを心掛けているのですが、まだまだパワー的な力に頼ろうとする時があります。
今より力が抜けるようになれば、もっと自然体の技、瞬発力が出てくると思っています。
ですから年をとるほど楽しみになってくるわけです」 17p
この文章は1994年頃の「季刊合気ニュース」のものだということですので、今から21年ほど前のことです
誰でも最初から達人でないのは分かっているのですが、宇城先生でもこのような時期があったのかと思うと、何かうれしいような気持ちになるとともに、先生が身近に感じられます。
「重心、丹田、柔らかい力・・・など武術にとって重要な語句は、言葉としてはありますが、実在していません。
しかし、認識できる人には重心、丹田・・・などが実在します。
たとえば「柔らかい力」が実在すると、相手に力を感じさせずに倒したりすることができます。
また相手が押してきても、こちらが相手の力をゼロの状態にすることによって相手は力が入らず押せません。・・略・・
これは「柔らかい力」が認識できており、かつ実在するから可能なのです」 62p
実在しないものを実在するようにするのが稽古だと思います。
「一触によって相手の力量は全部わかります。
また一触を通じての指導は、「できる」という裏付けが自分になければならない。
それだけに厳しい世界です」 139p
手首を掴んだり掴まれたりの一瞬の接触によって、相手の技量は全てわかります。何かをするまでも有りません。
「「できる」という裏付けが自分になければならない」という言葉を肝に銘じます。
「武術というのはできるかできないかが実にシンプルで、やってみればすぐに答えが出てしまいますね。
できるかできないかに尽きる武術の世界には曖昧さはありません」 153p
白黒が瞬時にわかり、文句をいう余地のないところが気に入ってます。
出来ないのは自分の技量未熟・稽古不足です。
「「百見は一触にしかず」です。
この一触をもって教える、学ぶことが大事です」 156p
何事も体験しなければわかりません。
「武道でいう真の力は力のない力である。
それは力の抜き方ができて初めてわかる。
さらにそのことによって小が大に勝つという可能性の認識ができあがってくる」 198p
まだまだ、力の抜き方ができません。
力のない力を求めて努力します。
ごあいさつ
2015年09月04日 10:45こちらで新たにブログを始めます。
よろしくお願い致します。