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基本稽古の二つの技術 その2
2024年06月13日 17:07以前、「基本稽古の二つの技術」というブログで、「基本稽古では相手の防衛システムを作動させないように接触する技術と、相手の防衛システムを作動させないように動かす技術の二つの技術を使っている」ということを書きました。
その二つの技術を可能にしている原理について、現段階での私の考えを述べてみます。
まず一つ目の、相手の防衛システムを作動させないように接触するためには、相手と接触した瞬間に相手と一体となる、結ぶ、繋がる等の技術が必要です。
相手と一体になるとはどういうことでしょうか、
現在の私の認識では、接触部分を通じて自分の無意識と相手の無意識が繋がることだと考えています。
矛盾した言い方かも知れませんが、自分の意識で無意識をコントロールして相手の無意識と繋がるのです。
自分と相手が無意識で繋がっているがゆえに、相手が抵抗できないとか、相手の手がくっついて離れないという現象も起こるのだと思います。
仏教では八識とか九識十識と言って無意識には種類があり、末那識(まなしき)、阿頼耶識(あらやしき)、菴摩羅識(あんまらしき)、乾栗陀耶識(けんりつだやしき)というものがあるそうです。
合氣の階梯というのは、最初は一つの無意識としか繋がれないものが、稽古を重ねることによって全ての無意識と繋がることが出来るようになることかも知れません。
そして、無意識との繋がリ具合によって、想像もつかないことが起こるのではないかと思います。
無意識同士を繋げるなど荒唐無稽な考えと思われるかも知れませんが、今はそういう認識です。
ちなみに無意識とは心のことだと思っています。
二つ目の、相手の防衛システムを作動させないように動かす技術とは具体的に何を言うのでしょうか。
それは、氣の力(足下からの上昇エネルギー)を使う技術のことだと考えています。
筋力を使う身体の使い方と、氣の力を使う身体の使い方は違います。
日本の古武術には、「手を以てせず、足を以てせず」という言葉があり、勁力を使う太極拳には「太極不用手、用手不是太極拳」(太極拳は手を使わない、手を使えばもはや太極拳ではない)という言葉があるそうです。
これは氣の力の使い方を言った言葉だと思います。
手を動かすために、手の筋力を使うなということですが、筋力を使う代わりに氣の力を使うのです。
基本稽古は、相手を掴んだり、掴まれたり、触れた状態から相手を動かす稽古をしていますが、稽古の主眼は何かというと、相手と無意識で繋がることと、氣の力の使い方を身につけることです。
基本稽古が死ぬほど難しい所以です。
合氣修得のための基礎と基本について
2024年05月13日 12:10最近新しく入会された方や、入会予定の方が増えてきましたので当会の基本的な考え方についてランダムに書いてみたいと思います。
基礎と基本という言葉は、同じような意味を持っていて使い分けが難しい言葉のひとつだと思います。
基礎と基本はどちらも物事が役に立つ基になるもの、という意味だそうです。
その違いは、基礎が物事の土台のことを表すのに対して、基本は物事の軸になるものを指すということです。
では、合氣修得のための基礎と基本とは何でしょうか?
当会では
合氣修得のための基礎とは「しっかりと立ち、しっかりと座り、しっかりと歩くことの出来る身体」
合氣修得のための基本とは「相手との接触部分を通じて相手を動かす技術」
としています。
この基礎と基本は合氣修得のためには、車の両輪みたいなものでどちらもなくてはならないものです。
基礎がしっかりしていなければ、基本がどんなに優れていてもその能力を十分に発揮できませんし、基礎がしっかりしていても基本が出来ていなければ単なる力技になってしまいます。
当会では、基礎の部分は主に一人稽古で、基本の部分は道場での対人稽古によって能力向上に努めています。
基礎能力については、稽古の度に会員お一人お一人に対して、私がチェックしています。
そして、会員の皆さんの基礎能力が私を超えることを当面の目標にしています。
氣の力・合氣に関する誤った認識
2024年04月24日 07:39それは、氣の力とか勁力等の筋力ではない力が身についたら、どんな人にも通用するものだと思っていたことです。
しかし稽古を続けて分かったことは、氣の力も筋力と同じようにレベルがあるということです。
これは合氣についても同様です。
合氣が分かればどんな人でも無力化できると思っていたのですが、そうは問屋が卸してくれませんでした。
私にとって、氣の力も合氣も未知の世界の神秘の技術でしたので、氣の力や合氣が身についたら万能だと思い込んでいたのです。
現実はそんなに甘いものではありませんでした。
レベルの低い氣の力や合氣では、ごく一部の限られた人にしか通用しません。
日々の稽古の目的は、氣の力・合氣の技術が通用する人を増やしていくことと言えるかも知れません。
当会では、基本稽古が全人類に通用するようになることを目標としています。
基本稽古の二つの技術
2024年04月23日 16:50自分より、体格も体重も腕力も勝る相手に手首を掴まれたり、掴んだり、触れた状態から相手を動かすためには、普通の動作では不可能です。
どんなに速く動こうが、どんなにゆっくり動こうが、普通の動作では相手の防衛システムが作動して止められてしまいます。
当会の稽古は型稽古ですから、相手はこちらの動きが予測できるため、対処はより容易になります。
この状態から相手を動かす方法は、各武術、各流派によって様々だと思いますが、当会では合氣の原理で述べたように「相手の防衛システムを作動させないように接触し、防衛システムを作動させないように動かす」ことによって相手を動かすことを可能にしています。
つまり、相手の防衛システムを作動させないように接触する技術と、防衛システムを作動させないように動かす技術の二つの技術を使っているということです。
では、防衛システムが作動しないように接触するにはどうすれば良いのでしょうか。
そのためには、相手と接触した瞬間に「相手と一体になる、相手とひとつになる、相手と結ぶ、相手と繋がる、相手とシンクロする、相手と調和する、相手と和する、相手と同化する・・・」等の状態を作ることです。
私はあなたで、あなたは私状態です。
自分と相手が一体になっているので防衛システムは異常を感知できず、防衛システムが作動することはありません。
その後相手を動かすのですが、普通の動作で動かすと瞬時に自他は分離し、相手の防衛システムが作動してこちらは身動きできなくなります。
相手の防衛システムを作動させることなく動かすためには、相手を動かすという技術が必要になります。
自分の身体を自分の神経で動かすように、相手の身体を自分の神経で動かすのです。
細かい注意点は、たくさんあるのですが、当会の基本稽古ではこの二つの技術を主に稽古しています。
ほとんどの方にとっては未体験の感覚だと思いますので、この文章を読んでもなかなか理解できないと思います。
宇城憲治先生がおっしゃる「百見は一触に如かず」です。
まずはお気軽に体験においでませ。
合氣の身体は20年
2023年02月28日 20:42私が子供の頃は、桃栗3年柿8年、梅はすいすい13年 ♪♪ と歌っていました。
芽が出て実がなるまでに、桃と栗は3年、柿は8年かかるということです。
梅の場合はもう少し早く実がなるそうですが、何事も成し遂げるためには相応の年月が必要という意味のことわざです。
では、氣の身体になるにはどれくらいの年月が必要なのでしょうか。
錦戸無光先生は
「普通、氣の身体になるには、一般の人では、早い人でも20~30年かかります。」(合氣の極み)
佐川幸義先生は
「いろいろ工夫しながら毎日鍛錬を猛烈にやっても、身体がある程度出来るまでには少なくとも20年はかかる。
とても10年やそこらではいくらやったって身体は出来てこないのだ。
身体が出来てこなければ本当には出来ないよ。」(透明な力)
とおっしゃっています。
毎日鍛錬を猛烈にやっても最低20年。
何を以て氣の身体が出来たと言うのかは問題ですが、両先生が口を揃えておっしゃることですから間違いないと思います。
ちょっと聞いたら心が折れそうな言葉です。
しかし、合氣修得を目指す人にとっては貴重な情報ではないでしょうか。
合氣は力を使わないから、技術だけを錬磨すれば鍛錬は必要ないと考える人も多いかもしれません。
最低20年は鍛錬を続けなければ物にならないという予備知識を持って稽古を始めるのと、鍛錬の必要性を知らないで稽古を始めるのとでは、その後の上達やモチベーションの維持に大きな差が出ると思います。
こうした情報を残してもらえるというのは、本当にありがたいことです。
桃栗3年柿8年、合氣の身体は20年 ♪♪
あれから3年 その4
2023年02月27日 17:20昨年の暮れには、熊本県美里町にある日本一の石段と言われる3333階段に行ってきました。
全長2900メートル、標高差620メートル。
日本各地の名石や、中国、韓国、インド、アメリカなど世界各国の御影石が使われていて、昭和63年3月末に完成したそうです。
その階段の上り口で、今日3回目を登ってきたという男性に出会いました。
聞くところによると、27年間で一万五千数百回登っておられるということです。
数字は詳しく言われたのですが忘れました。
とにかく1日1回では到達できない回数です。
お歳を聞くのを失念してしまいましたが、私よりも先輩であることは間違いありません。
また、多分30代か40代の男性が、重そうなリュックを背負い、両手にそれぞれ12キロのダンベルを持って登っておられるところにも出会いました。
熊本にはすごい人たちがおられるものだと思いました。
私の行きつけの山には、今年85歳になる男性がほとんど毎日来られています。
そして、3年前の私ではとてもついて行けない速度で登って行かれます。
「毎日歩こうと思わないで、月に25日、1年300日を目標にすると良いよ。」とのアドバイスをいただいています。
とにかく、どこの山に行っても元気な先輩方がたくさんおられて刺激を受けます。
先輩方を目標に、これからも山中徘徊を続けたいと思っています。
あれから3年 その3
2023年02月26日 18:50一昨年の7月は、萩往還マラニックという催し物に参加しました。
「ン?」と何かを思った方もおられるかもしれませんが、マラニックというのは、マラソンとピクニックを組み合わせた造語だそうです。
参加部門は、33キロの部、66キロの部、100キロの部の三部門がありました。
それぞれ別々に出発します。
私が参加したのは、もちろん33キロの部です。
こういった催しに参加するのは初めてのことです。
真夏の炎天下で33キロも歩くのは、ひょっとしたら自分が最高齢かもしれないと思っていたのですが、先輩と思われる方がたくさんおられてびっくりしました。
33キロの部は、萩市を出発して山口市まで歩きます。
66キロの部は、33キロの部と同じコースを山口市を出発して往復します。
こちらはランニングです。
コースの途中ですれ違うのですが、向こうから走ってくる66キロの部の人達を見ていると、どう見ても私より先輩と思われる方が何人もおられるのです。
「マジか!」と思いました。
こちらは33キロでヒーヒー言っているのに、2倍の距離を走るとは。
この様子では、100キロの部にも先輩が参加されているに違いありません。
33キロで自分が最高齢かも知れないなど認識不足も甚だしい考えでした。
それにしても、こんなにたくさんの先輩方が参加されているとは驚きでした。
「よーし、今度はオレも66キロに挑戦するぞー!」
とは、これっぽっちも思いません。
あれから3年 その2
2023年02月24日 18:24徘徊老人と化してから今日までたくさんの方に出会いましたが、その中ですごいと思った方を何人か紹介したいと思います。
山に通勤を始めて間もなくのことです。
52歳の時から20年間、年に330回ほど山に登っているという男性に出会いました。
単純計算で6600回ほど登っていることになります。
これは意志の強さはもちろんですが、仕事や家庭の事情もあるだろうし、ケガをしたり病気になったりすることもあり、1年に330回の登山を20年間続けるというのはなかなか出来るものではありません。
生活習慣病を克服するために山歩きを始めたということでしたが、おかげで元気になったそうです。
その立ち姿は若々しく活力に溢れていて、とても生活習慣病を患った方には見えませんでした。
その方に「楽に歩くコツはありますか?」と尋ねてみました。
その方は言下に「無い!」と否定されました。
私は深くうなずきました。
あれから3年 その1
2023年02月23日 11:032020年4月、第一回目の緊急事態宣言が発令されて武道館が休館となり、私たちの稽古も自粛を余儀なくされました。
コロナ禍で外出もままならず暇を持て余したので、久しぶりに山でも歩こうかと近所の山に行ってみました。
ところが、わずか100メートルほど坂道を登ったところで、息はゼイゼイ、心臓バクバク、膝はガクガク、頭クラクラとなって倒れそうになったのです。
「何じゃこりゃ!」です。
別に重い荷物を背負っていたわけではありません。
軽く運動のつもりだったので、持ち物はポケットに入れた携帯とメガネだけです。
こんなわずかな距離を歩いただけでこのような状態になるとは、我が身のあまりの弱体ぶりに愕然としました。
日頃は会員の方に「しっかりと立ち、しっかりと座り、しっかりと歩くことが重要です。」とか、偉そうに講釈を垂れていたくせに、ほんのちょっと坂道を登っただけでこのザマです。
恥ずかしくて穴があったら入れたいと思いました。
・・・・・・・・・・
あれからもうすぐ3年
あの日以来徘徊老人と化して、リュックに付けた鈴の音を道連れに、三密とは無縁の山の中を歩き回る毎日です。
山の新鮮な空気を吸って、春夏秋冬、季節の変化を楽しみながら元気に徘徊できることは本当にありがたいことです。
おかげで、顔も真っ黒になり、足腰も多少は丈夫になって心肺能力も向上し、少しくらい歩いても倒れそうになることはなくなりました。
しっかりと立つ
2022年10月11日 19:22合気という技術を発揮するためには、相手よりもしっかりと立てていることが必須の条件です。
なぜなら、相手よりもしっかりと立てていない場合、相手と接触した瞬間に崩されてしまうからです。
接触した瞬間に崩されたら、どんなに優れた合気の技術を持っていても、それを使う余地がありません。
技術以前の問題です。
逆に言えば、相手よりしっかりと立てていれば、合気の技術がなくても接触した瞬間に相手を崩すことが出来るということです。(相手に合気をかけることは出来ませんが、相手の合気はこちらに通用しません。)
では、しっかりと立つとはどういうことでしょうか。
私たちは、物心がつく以前から立っています。
そのため、普通に生活が出来ている人で、自分がしっかりと立てているとか立てていないとか考える人はあまりいないと思います。
日常生活に全く支障はありませんから、何か特別な体験でもしない限り、こんなことを考えることはありません。
私も、氣の力を身につけたくて拳法道場に入門するまでは、自分が立てていないなどとは夢にも思ったことはありませんでした。
私の今の認識では、「しっかりと立つ」とは相手と接触した時、いかに相手に寄りかからないで立てるかどうかだと考えています。
これを読んで、なるほど相手に寄りかからなければ良いのかといって、寄りかからないで相手に接触できる人はおそらく一人もいないと思います。
いや俺は出来るという方もおられるかもしれませんが、私たちは訓練しない限り何かに接触したらそれに寄りかかるようにプログラムされているのです。
特に相手と押し合いをするような場合、必ず相手に寄りかかって押そうとします。
相手もこちらに寄りかかって押してきます。
お互いに寄りかかり、支え合い、ぶつかり合って押し合います。
当然体重が重くて力の強い方が有利になります。
筋力・体力の世界です。
しかし、相手に寄りかからずしっかりと立つことが出来れば、自分より体格も体重も腕力も勝る相手を動かすことが出来ます。
しっかりと立つためには筋力や、体重、体格、年齢、性別はあまり関係ありません。
なかなか難しいことですが、指導を受けて鍛練を重ねれば誰でもしっかりと立てるようになります。
しっかりと立つことの出来る身体は、力みのない身体、遊びのない身体、緩みのない身体、弛(たる)みのない身体、詰まりのない身体、一本になった身体、動かない身体でもあります。
そして当会の目指す身体は、佐川幸義先生の言われる「どんな力も受けつけない身体」、「近づくだけで相手が倒れてしまう身体」です。