記事のアーカイブ

稽古の壁 

2017年12月29日 22:04
合氣の稽古を始めた人が突破すべき、最初の壁それは「自分よりも体格が良くて力も強い初心者に対して、基本技をかけられるようになるかどうか。」ではないかと考えています。もちろん基本技にもA難度からG難度まであり(私の勝手な分類です)、力も自分より少しだけ強い人から、比較にならないくらい強い人まで様々ですから、全ての人にかけられるようになることを目指す必要はありません。まずは自分より少しだけ力の強い人に対して、A難度の技を十人のうち七、八人以上の確率でかけられるようになれれば十分だと思います。しかし、相手がこちらの動きに合わせて倒れてくれるような場合はともかく、自分よりも力が強い相手に両手首をつかまれ

稽古の心構え

2017年12月04日 21:12
教わったことはその時に何としても覚えてしまおうという気持ちが大切だ。明日があると思ってはいけない。今度の練習の時に覚えれば良いとか明日やれば良いという考えではいつまでたっても覚えられない。死ぬまで明日というのは常にあるのだから今やらねばという気持ちでやるのだ。いつかでは駄目だ。先生しかできない。先生は特別だという考えでは決して上達しない。同じ人間ができるのだから必ず出来るはずだ、という考えを基にして研究すれば出来るようになると私は思う。佐川幸義先生語録

合氣とは何か

2017年07月02日 13:17
合氣とは何かということは、合氣修得を目指す人にとっては関心の高い事柄だと思います。合氣の定義は、それぞれの組織・団体によって様々です。その内容も、技術としてとらえているところ、精神的なものとしてとらえているところ等、統一されたものは何もありません。松坂慶子さんの「愛の水中花」のごとく、これも愛、あれも愛、たぶん愛、きっと愛 ♪♪ ではありませんが、おそらく道場の数だけ合氣の定義があるのではないでしょうか。私が会員の方を転ばせて「これが合氣です。」と言ったらそれが合氣として通用します。どれが正しいとか、間違いとか、良いとか悪いとかいうものではありません。ペンとかリンゴとかと違って、実体のないもの

氣の力は、私達の誰もが持っている!

2017年04月02日 14:00
日々の稽古を通じて思うことは、その力の強弱はあれ、私達の誰もが氣の力をすでに持っているということです。その証拠に、氣の力を体現できる人から、心と身体の使い方を習い、呼び水を注いでもらえば、誰でも瞬時に氣の力を使う事が出来るようになります。あらためて筋力トレーニングとか、呼吸法等の訓練をして何かを身につける必要はありません。錦戸無光師範が言われる「人の身体は本来「氣の身体」なのであり・・・・・・・。」というのはまさにこのことを言っているのだと思います。本来は氣の身体であるにもかかわらず、長年の生活習慣のために筋肉主体の身体になっているのです。しかし、瞬時にできるようになっても、残念なことに瞬時に

そのうち

2017年01月23日 17:55
そのうち お金がたまったらそのうち 家でも建てたらそのうち 子供から手が放れたらそのうち 仕事が落ち着いたらそのうち そのうち そのうち・・・・とできない理由をくりかえしているうちに結局は何もやらなかった空しい人生の幕がおりて頭の上にさびしい人生の墓標が建つそのうち そのうち 日が暮れるいまきた この道 帰れないある方のブログにありました。人生は、今の連続です。今 やらないことは、永久にやりません。今 できないことは、永久にできません。何事でもやるなら今しかありません。今年は、やらなかった後悔がいっぱい詰まった頭にならないようにしたいと思います。

稽古納め

2016年12月29日 14:15
昨日は当研究会の稽古納めでした。会員の皆様のおかげで、怪我もなく充実した稽古ができた一年になりました。いろいろとお世話になり誠にありがとうございます。皆さん、上達があまり実感できないとおっしゃいますが、私の場合と比べると雲泥の差で上達されています。来年も自信を持って稽古に臨んでいただきたいと思います。皆様、良いお年をお迎えください。

稽古の難しさ

2016年08月29日 19:09
氣の力等の筋力に頼らない力を修得するためには、まず日常的な動きの質を変えることが必要です。動くべきところ、動いてはいけないところ等をしっかり守らなければ、氣の力ではなく筋力になってしまいます。氣の力等の稽古の難しさの一つは、自分の意識と実際の動きが違うことだと思います。「動かしているつもりはなくても動いている。」「動かしているつもりでも動いていない。」自分が間違ったことをしたという自覚があれば修正のしようも有るのですが、それがないため、修正が非常に困難です。「あなたの動きはこうなっている。」と言われても「そんな筈はない、私は言われたとおりにやっています。」と反論したくなります。このような思いは

合氣について

2016年08月08日 19:11
「力まかせにやっていくと、しまいに互いに抵抗力がついて互いに技が効かなくなって行き詰ってしまうでしょう。それを乗り越えるのは何かというと、それが崩しなのです。そして崩しが合氣の術なのです。」「合氣が分かったら、どんな者に対しても力を使わずにできる。」「力が強い者はやりにくいというのは合氣ではない。」「崩しは合氣の一部だが全てではない。」「合氣がなければ、年をとったら出来ない。合氣が分かれば、力とか年齢を乗り越えられるのだ。」「合氣は集中力とか、透明な力というような、いわゆる力とは違うものである。合氣は敵の力を抜いてしまう技術だからである。そのうえくっつけて離れないようにもしてしまうのだから大変

”触れて崩す”

2016年07月24日 22:48
今月発売「月刊秘伝」八月号の表紙のキャッチコピーです。この”触れて崩す”という文字に合氣を掛けられて、思わずフラフラと購入してしまいました。記事では三名の方が写真付きで、触れて崩す理合を説明しておられます。どんなに不思議な現象でも、その現象には必ず理由が有ります。崩す理合は三者三様ですが、参考になるところがたくさんありました。しかし、この記事を何百回読んでも、この記事に書いてあるとおりに触れて崩すことができるようにはなりません。また、触れて崩すことができない人同士で稽古しても、おそらく何年稽古しても出来るようにはならないでしょう。書いてあるとおりの技法を修得するためには、この記事を書いた人から

下手な稽古と駄目な稽古

2016年06月12日 14:10
振武舘宗家、黒田鉄山先生著 「気剣体一致の武術的身体を創る」 BABジャパン刊 の中に出てくる言葉です。一部を紹介します。「出来ないこと、それが駄目なことを意識して、静かに稽古を重ねるのである。これを「下手な稽古」という。下手な稽古には上達の道が拓けているが、自分の身体が動かぬことを意識せずに、悪しき日常動作のまま自分勝手に動くものにはそれがない。それは万年稽古と言い、いつまでたっても駄目なままで、術技は上がらない。いくら太刀や竹刀の操作が敏速、俊敏になっても、それは運動競技的価値判断に基づくものであって、ただそれだけでは武術的には無であることには変わりはないのだ。意念、意思によって体の動かぬ
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