基本稽古の難しさの正体

2022年07月03日 17:07

当会では基本稽古で、筋力では到底不可能なことを稽古しています。


たとえば、自分よりも体格が良く体重も重く筋力も強い人に両手首を掴まれたり、自分が掴んだり、手のひらで触れた状態から相手を動かすというようなことです。


型稽古ですので、動かす方向を決めて行います。


動かす方向は主に前後、左右、上下の六方向です。


相手が忖度して動いてくれる場合はともかく、真面目に抵抗されたらどんなことをしても相手を動かすことは出来ません。


相手は自分よりも筋力が強いのですから、動かそうとすると簡単に止められてしまいます。


しかし、動かす方法を指導すると、指導した人は全員一人の例外もなく出来るようになります。


ところが少し時間が経過したり稽古相手が変わると、これも一人の例外もなく出来なくなります。


また指導すると、すぐ出来るようになるのですが、これまたすぐに出来なくなります。



普通、私たちが一旦身体で何かを覚えた場合、それが出来なくなることはまずありません。


たとえば、泳げるようになったり、自転車に乗れるようになることです。


一旦泳げるようになったり、自転車に乗れるようになったら、たとえ10年ぶりに泳いだり自転車に乗っても、下手になっていることはあっても、全く出来なくなっていたということはありません。


しかし基本稽古の場合は、5年稽古しても6年稽古してもすぐに出来なくなるのです。


しかも出来なくなってから、出来た動きを自分で再現することが極めて難しいのです。


難しいと言うより不可能と言った方が適切かもしれません。



私は今日まで、これは常識外れの技術だから難しくて当たり前だと思っていました。


そのため、難しさについて深く考えることはありませんでした。


しかし、氣の力の正体が分かって以来、呆けた頭でいろいろ妄想しているうちに、基本稽古の難しさの正体が分かったのです(多分)。


基本稽古が死ぬほど難しい理由は、基本稽古は「人間本来の本能を駆逐して、新たな本能に入れ替える作業」だからです。



人は誰かに手を掴まれて何かをしようとする場合、必ず力を入れて(力んで)対応します。


基本稽古でも、手首を掴まれて相手を動かす稽古の場合、一人の例外もなく力んで相手を動かそうとします。


相手が自分よりも力が強くて、力んで動かしても無駄だと分かっていても力んでしまいます。


なぜなら、私たちの身体はそういう場合、防衛本能として「力んで対処する」ようにプログラムされているからです。


自分一人で動いている場合や、抵抗が小さい場合は力まない動きは何の問題もなく出来ます。


しかし、人から掴まれたような場合「力まないで対処する」というプログラムは私たちの身体にはないのです。



私が指導しているのは「掴まれた状態でも力まないで動く方法」です。


のため、指導を受けて一時的に新しいプログラムである「力まない動き」が出来ても、時間が経過したり稽古相手が変わるとすぐに本来のプログラムが作動して「力んだ動き」になってしまうのです。


そして、力まない動きを再現しようとしても、本来のプログラムが作動中のため、自分の意志では再現できないのです。



本能に打ち勝つことがどれほど難しいことかは、たとえば泳げる人が自ら溺れようとしたり、自転車に乗れる人が自ら転ぼうとするのを想像すると分かると思います。


防衛本能が働いて、なかなか出来るものではありません。


基本稽古が死ぬほど難しい理由は、新たな本能を構築し、なおかつ本来の本能を駆逐しなければならないからです。


敵は本能寺にあったのです。



基本稽古は、自分の無意識・潜在意識との戦いです。


戦いに勝つ方法は一つしかありません。


勝つまで戦い続けることです。