氣の力を求めて(全12話)

ブログの記事を読みやすいようにまとめました。


「氣の力」を求めて その1 2015年9月4日


私が「氣の力」というもの、更には合氣に関心を持つようになったのは、趣味のゴルフがきっかけでした。


当時、私はゴルフに熱中しており、スコアよりも何よりも、ドライバーの飛距離を伸ばすために日夜研究を重ねていました。


そんなある日、「「氣の力」が分かればドライバーの飛距離が二十ヤードは伸びる」という週刊誌の見出しが目に飛び込んできたのです。


その頃は、テレビや書物、週刊誌などで、氣の力で触れずに人を飛ばしたり氣で病気を治したりと「氣」に関する情報が巷に溢れていました。


平成元年頃のことです。


「なに~! 氣の力でドライバーの飛距離が伸びる? ホンマかいな?」

とは思いましたが、週刊誌の広告を信じ、ドライバーの飛距離を伸ばしたい一心で、氣の力を教えてくれる先生を探す旅に出たのです。


氣の力を求めて その2 2015年9月5日


氣の力といっても、当初はそれがどんなものか、どうすれば身につけることができるのか、皆目見当もつきません。


とにかく、氣に関連した様々な教室に体験に行ったり、氣功の講習会に顔を出したりしていました。


しかし、なかなか納得のいく先生には出合えません。


いろいろ調べるうちに、ドライバーの飛距離を伸ばすような氣の力とは、病を治すような氣の力ではなく、武術でいうところの呼吸力とか、勁力、中心力、渾元力等のことだと分かりました。


そこで今度は、武術の先生を探し求めてあちこち訪ね歩きました。


そんな中で出会った本の中の一冊が、太気拳の創始者である澤井先生のことを書いた「拳聖 澤井健一先生」 佐藤嘉道氏著 スポーツライフ社 です。


大気拳は「氣の力」を重視する武術です。


当然、太気拳についても考えました・・・・・・・・・・・。しかし

今はそういうことはないと思いますが、その当時は大気拳といえば謎の中国拳法と呼ばれ、太気拳の修行者は空手や他武道の高段者が多く、稽古は素面素手で顔面ありの組み手を行うため、あまりの激しさに入門しても長続きする人は少ないと言われていました。


ドライバーの飛距離を伸ばしたいのはやまやまですが、武道・武術に全くの素人の私が組手をやらされて、“自慢の端正なマスク”がグシャグシャにされるのを想像すると、二の足を踏んでしまいました。


武術の方でも、私を納得させてくれる先生にはなかなか出合えませんでした。


それでもあきらめず、師を求めて旅を続けるうちに、ようやく私を納得させてくれる先生に巡り合うことができたのです。


天は私を見捨てませんでした。


氣の力を求めて その3 2015年9月6日


その方は私より四歳ほど年上で、太極拳の流れをくむ拳法道場の師範でした。


現在、その技は益々円熟味を増し、まさに「老いてなお強し」の境地を体現しておられます。


体験に行って師範と初めて手を合わせた時、自分の力が全然通用せず、全く歯が立ちません。


後で分かったことですが、これは立位・座位の様々な姿勢でお互いの両手を接触させて押しあって、武術的な力がどれくらいできているかを見る検証方法でした。


師範の力は、今までの人生で全く経験したことのない力でした。


当時は私もドライバーの飛距離を伸ばすために、筋力トレーニング等の努力は惜しまずやっていましたので、筋力にはそれなりの自信がありました。


その力が全く通じないのです。


それも筋力で負けたというよりも、筋力を発揮する前に崩されるのです。


力を入れようとすると崩されるのですから訳が分かりません。


後で師範に教えていただいたところによると、この力は太極拳では「勁力(けいりょく)」といって、普通私たちが使っている筋力とは質の違う力だということでした。


今ならどういう原理で崩されたのかが理解できますが、当時は訳が分からず、ただただ不思議でした。


しかし、「氣の力」を持った本物の先生にようやく出会えた、という喜びでいっぱいでした。


さっそく入門させていただき、稽古を始めることになりました。


平成二年九月、ちょうど今から二十五年前のことです。


氣の力を求めて その4 2015年9月9日


師範は、「勁力(氣の力)がなければ、いくら技を覚えても無意味である。氣の力が身についていない身体で技の稽古をしても、それはうちの武術ではない。」と言われ、氣の力を身につけるため、ひたすら基本功というものを稽古しました。


私も、特に武術に興味があるわけではなく、ただドライバーの飛距離を伸ばすために氣の力を修得したかっただけでしたので、氣の力を得るために特化した稽古は、むしろありがたいことでした。


基本功の内容は、両手を胸の前で何かを抱えるようにして立ち続ける立禅と、ゆっくりとした動きで行う練功、その後腰を落として様々なバリエーションで手を動かし、それに合わせてゆっくりと歩くものでした。


しかし、しばらく稽古を続けるうちに、氣の力を修得することがいかにむずかしいかを思い知らされるのです。


そのむずかしさについては、次回以降述べたいと思います。


氣の力を求めて その5  2015年9月11日


氣の力を修得するためには、氣の力を体得している人から直接の指導を受けることが、必要不可欠の条件ではあるのですが、指導を受けたからといってすぐに身につくほど甘いものではなかったのです。


氣の力を体得している人が少ないのも、もっともなことだと思いました。


氣の力を修得することがむずかしい理由を思いつくままに書いてみます。


1 氣の力の正体が分からないこと


氣の力が、普通の筋力とは質の違う力である、というのは実際に体験することによって理解出来るのですが、ではその力がどういう原理によって生み出されているのかということが分からないのです。


これが普通の力であれば、力は骨格筋の収縮と弛緩によって生み出されるということが分かっています。


したがって力を強くするためには、筋力トレーニングによって必要な筋肉を鍛え、筋力を強くすれば良いだけの話ですから、何も悩むことはありません。


しかし、氣の力の場合は、その力はどうやって生まれるのか、どんな風に感じられるのか、どう使えばいいのか等が全く分かりません。


まるでブラックボックスのようなものです。


意拳の王向斉先生は、弟子である澤井先生に対して、


「あなたに氣の力を何百回説明しても分からない。それは自分の力でしか得られないものだ。」

と語られていたと言うことです。


私も師範に、氣の力とは何かを尋ねましたが、同様の答えが返ってきたのを覚えています。


2 稽古が単調、かつ非常にきつく、つらいこと


内家拳の修行者で、立禅等の稽古をされている方は先刻御承知でしょうが、一定の姿勢を保ってじっと立ち続けること、ゆっくり歩き続けることが、どれほどきつくつらいことか、これは実際に体験した人でないと分からないと思います。


筋力トレーニングやランニング等の身体を動かすトレーニングも確かにきついのですが、そのきつさとはひと味もふた味も違います。


もしこれが自分の意思でなく、人から強制されてやらされるとしたら、立派な拷問になると思います。


3 この稽古をすれば確実に氣の力を得られるという希望が持てないこと


私が入門した道場では、氣の力を修得するために、立禅、練功法、歩法の稽古を主にやらされましたが、入門当初は、こんな稽古を続けて本当に氣の力が身につくのだろうかという疑問が、正直ありました。


澤井先生も

「王向斉先生に立禅の形を教えられた時、こんなことをして本当に強くなれるのかと、疑問を持たずにはいられなかった。

こんな稽古が何の役に立つのだろう。


毎日毎日ナツメの木の下で、じっと立つ時にはいつもそう考えていた。


こんな稽古でいざという時本当に動けるのだろうか。


気とか力が生まれるのだろうか。


少なくとも三年くらいはそう思ったものである。」


と語られています。


私が読んだある本では、氣の力を体得したという先生が


「この種の力は、ひたすら修練していれば身につくこともあれば、才能がなければ一生身につかない。」


と書いておられます。


あんなにきつく、つらい稽古を一生稽古しても身につかないと言われたら、普通の人は心が折れてしまいます。


これが例えば、ダイエットが目的ならば、二か月後に見違えるような身体になるためには、専門家による食事指導と、運動指導を受けて取り組めば、ライザップのCMのように変身することが可能であると思えます。


根性を出してやれば、見違えるような身体になれるという希望があります。


しかし、氣の力についてはその希望が持てないのです。


氣の力を求めて その6 2015年9月12日


今回も引き続き、氣の力を修得することがむずかしい理由を書きます。


4 氣の力を修得するには長期間を要すること


もし、氣の力を修得することができたとしても、それには長期間の修行を要するということです。


「拳聖 澤井健一先生」の著者である佐藤嘉道氏は、御自身の場合


「立禅の苦しみを長年続けていると、ひとつの形ができ、体内に“氣”が充満してくるが分かるようになる。


私がそれを感じたのは、立禅を組み始めてちょうど五年くらいたってからのことである。


電気でいう充電と同じように、体内に自然と氣が充満してきたのを覚えている。


ただ「氣が充実してくる」のは分かったのであるが、それは実際に技として使う、外面に出す技術とは全く別なものであり、そこに一つの難題がある。」


と書いておられます。


このきつくて、つらい稽古を五年間続けてようやく氣が感じられ、しかもそれを実際に使うにはまだ壁があるというのです。


本の中では、三十分あるいは一時間立ち続ける、とあります。


もちろん毎日です。


薄紙を毎日一枚ずつ重ねていって、大きな玉を作るような作業です。


心が四つ折になります。


5 うまくいった時の実感・手応えがないこと


筋力でやる場合には、うまくいった時の確かな実感や手応えがあり、達成感があります。


しかし、氣の力で出来た場合にはそれがありません。


指導を受けてうまく出来た時には、指導者がワザと動いてくれたのではないかと思うくらい、力を使わずに出来るのです。


そのため、本当に出来たのかどうか、ついつい指導者を疑ってしまうほどです。


6 うまくいった時と、うまくいかなかった時の違いが自覚できないこと


師範からそれで良いと言われても、何が良いのか、どこが良いのか、良い時と悪い時の違いが全く分からないのです。


違いが分かる男になろうと思って、ネスカフェゴールドブレンドを飲んでみましたが、駄目でした。


出来た時と出来ない時の違いが分からないため、フィードバック(物事の反応や結果を見て、改良・調整を加えること)のやりようがないのです。


7 上達が目に見えないこと、なかなか実感できないこと


筋力トレーニングや、スピードアップのトレーニングであれば、何キロ持ちあげられるようになったとか、何秒短縮出来たとか計測することができます。


客観的に進歩上達が分かります。


身体もそれなりに逞しくなったり、あるいはシャープになったりして変化を実感できます。


ところが、氣の力については上達しているのか下手になっているのか、変化がないのか、なかなか実感できません。


立禅が、五分しか立てなかったのが、二十分ぐらい楽に立てるようになったというような変化はありますが、はたしてそれが氣の力を修得する目標に近づいているかどうかは、知る由も有りません。


氣の力を求めて その7 2015年9月13日


いろいろと氣の力を修得することがむずかしい理由を書きましたが、

要は


「稽古が単調で、きつくてつらいうえに、稽古を長年続けても氣の力を修得できるかどうか分からない」


というのが一番の理由だと思います。


私も、氣の力を修得するむずかしさに気づいて心が四つ折になりそうでした。


しかし、私が何とか稽古を続けられたのは


1 稽古で師範の力を体験する度に、この力こそ人間が本来持っている力だと直感的に感じたこと


2 稽古を続ける中で、この力を修得出来れば、年老いて筋力が衰えても、益々強くなっていくという確信が持てたこと


3 澤井先生の


「年老いて、若い人を指導する立場になった時、昔の自慢話をするだけの人間にはなるな。


若い人にしっかり稽古をつけられる人間に大成すること。


そして若い人にはない技を持って、模範となりうる人間となれ」


という言葉に深く共感したこと等で、モチベーションを維持できたように思います。


昔はオレも強かったとか、足が速かったとか、ドライバーの飛距離はたいしたもんだったとかいう自慢老人にならないために、何としても氣の力の手掛かりだけでも掴みたいと思っていました。


氣の力を求めて その8 2015年9月14日


稽古では、立禅、練功法、歩法のそれぞれについて、姿勢の細かい修正や、意念の用い方についての具体的な指導がありました。


よくわかった指導者から指導を受けずに立禅等を我流でやった場合、持久力をつけるための単なる筋力トレーニングになる恐れがあると思います。


稽古中に私がしっかり立てているか、動けているか、歩けているかを師範が私の身体に触れて検証します。


最初の頃は、師範に触れられると、自分の身体がまるで軽い風船になったようで、情けないくらい簡単に崩されていました。


また、立禅中に、検証のため師範が近づいただけで、自分が不安定になるような気がして不思議だったのですが、最近になってようやくその謎が解けました。


不安定になるのは単なる氣のせいではなく、師範の強力な氣の身体から発せられる氣の力によって、本当に崩されていたのです。


道場での稽古は、週に一回から二回、一回の稽古時間は三時間ほどでしたが、何としても氣の力を身に付けたいと思い、暇を見つけては基本功の稽古に励んだものでした。


氣の力を求めて その9 2015年9月16日


「宇宙人がやってきて、氣の力が分かる光線をピッと照射してくれないかな~」とか


「フロッピーデスク(昔はフロッピーでした)を頭に差し込んだら、立ちどころに氣の力が分かるようにならないかな~」


といった妄想と闘いながら、ひたすら立禅を続けたものです。


基本功の稽古に明け暮れた三年弱が経過して、ようやく少し立ててきたと師範に認められ、いよいよ技の稽古を始めようかという頃でした。


残念ながら私の仕事の関係で、やむなくその地を離れなければならなくなったのです。


平成五年八月のことです。


次の勤務地は、道場に通うには遠すぎました。


そのため、不本意ながら道場での稽古は止めざるを得ませんでした。


したがってこの武術に関しては、基本功だけしかやっておりませんが、立つ、歩く、身体を動かすことに関して多くのことを学びました。


その後も、武術の師を求める旅は続きましたが、平成十七年四月に大東流合気柔術に出会うまで、彼の地を離れてから十二年近くの歳月が流れていました。


氣の力を求めて その10 2015年9月18日


本物の氣の力を持った師範の道場に入門し、氣の力を修得するための稽古を始めてから、早二十五年が経過しました。


その間、武術ではありませんが、身体と心のことに関して超能力者ではないかと思うくらいの驚くべき能力を持った方の教えを受ける機会も有りました。


もっともレベルが高すぎて、教わった事の百分の一も理解できませんでしたが、合気について考える上で非常に参考になっています。


このような経験を通じて、氣の力・合気に関する理解も少しは進んだように思います。


氣の力・合気が分からない状態というのは、水泳に例えると、まだ水に浮かぶことができない状態に似ています。


まずは、溺れずに浮かぶようになることが先決です。


水に浮かぶことができるようになって初めて、泳法の練習が始められるように、氣の力・合気とは何かが分かって初めて、氣の力・合気の稽古に入れるのではないでしょうか。


現在の私のレベルは、水泳でいえばやっと溺れずに犬かきができるようになった程度だと考えています。


しかし、いったん泳げるようになりさえすれば、あとはクロールでもバタフライでもその技術を身につけ、さらに向上させるのは自分の努力次第で出来ると思います。


氣の力・合気の修得には対人稽古が必須の要件です。


ありがたいことに、私には一緒に合気修得を目指す熱心な会員の方々がおられます。


「教えることは学ぶこと」という言葉がありますが、会員の方々と稽古をしていると本当にこの言葉を実感します。


当会では、私は一応指導者ですが、本当は私が一番教えてもらっているのではないかと感じています。


「我以外皆我師」という言葉を心にとめて、今後とも稽古に精進したいと思います。


氣の力を求めて その11 2015年9月20日


ところで、ドライバーの飛距離がどうなったか?


気になる方もおられると思います。


実は、氣の力を修得するための稽古への熱意が強まるのに反比例して、なぜかゴルフへの情熱が薄れ、何とか氣の力が分かった頃にはゴルフ道具一式は、人に譲ってしまっていました。


そのため、私自身の身体でドライバーの飛距離が伸びたかどうかを検証しておりませんので、結果がどうなるかはっきりしたことが言えません。


氣の力でドライバーの飛距離が伸びるなら、ひとつオレもやってみようかと思っていた方には申し訳ありません。


ただ、筋力を原動力した動きと、氣の力を原動力とした動きでは、動きの質が全く違います。


氣の力の方が、はるかに精妙で素早い動きができます。


したがって、同一人物がドライバーショットをした場合、飛距離が何ヤード違うかは定かではありませんが、氣の力を原動力としてショットした場合の方が、飛距離が大きい可能性は極めて高いと思います。


あらゆるスポーツ、武道・武術、芸事、職人の世界等で一流と言われる方の多くは、本人の自覚の有無にかかわらず、氣の力で動いているのではないでしょうか。


氣の力は全ての技芸の根本になるべき力だと考えています。


氣の力を求めて その12 最終話 2015年9月23日


氣の力は、本来誰でも持っている力です。


その証拠に、姿勢を整えてあげればその力の強弱はあれ、誰でも瞬時に氣の力を発揮できるようになります。


皆さん、びっくりして感動されます。


ところが、残念なことに氣の力は長続きしません。


少し姿勢を変えたり、数歩歩いたりすると、たちまち氣の力は消え失せてしまいます。


皆さん、ガックリされます。


この姿勢が冷凍保存できれば良いのですが・・・・・・・・・・。


合気道の塩田剛三先生が言われる「誰にでもできて、誰にでもできない」という言葉は、まさにこのことを言っているのではないでしょうか。


立禅の目的の一つは、氣の力が発生する正しい姿勢を鋳型にはめ込むように、身体に沁み込ませることにもあるのではないかと考えています。


しかし、世の中の大多数の方は、自分の中にすでに氣の力が存在していることさえ知らないと思います。


その理由は、日常生活においては氣の力など全く必要ないからです。


人は、必要性のないことにはあまり関心を持ちません。


普通の生活を送る上では普通の力で十分間に合いますし、筋力以外の身体の使い方があるなどとは夢にも思わないと思います。


また、氣の力の存在に気がついた方でも、どうすればこれを修得できるか分からない方が大半だと思います。


防府合氣研究会では、基本技の稽古を通じて氣の力と合気修得を目指します。


関節技や痛い技の稽古はありません。


稽古では倒されても思わず笑いが出ます。


また、日々新たなことに気づく喜びと楽しさがあります。


氣の力を武道・武術、仕事、趣味等に生かしたい方、身体操作に興味のある方等、稽古の目的は何でも構いません。


どのような目的にも応じられる内容があると思っています。


ドライバーの飛距離を伸ばしたい一心で稽古を始めた私が、本来の目的を忘れて熱中するほど面白いものです。


果たして何名の方に、このブログを読んで頂いているか分かりませんが、ブログを読んで興味を持たれた方は、お気軽に見学・体験においで下さい。


お待ちしております。


結局、防府合氣研究会の宣伝になったところで、「氣の力を求めて」を終わります。


ありがとうございました。