弓と禅 その1

2016年09月05日 16:31

諫早稽古会のブログに、オイゲン・ヘリゲル博士の名著「弓と禅」のことが書いてありましたので、私も本棚から引っ張り出して読んでみました。

この本を購入したのは二十年以上前のことで、何が書いてあったかも思い出せないくらいでしたが、再読すると種目は違えど共感するところがたくさんありました。

ちなみに私は、弓に関しては全くの門外漢です。

今回改めて読み返して、印象に残ったところをいくつか書いてみたいと思います。


弓道では弓を発射することを「放れ」と言うそうですが、著者が放れで悩んでいた時の会話です。


そこである日私は師範に尋ねた。

「一体射というのはどうして放されることができましょうか、もし“私が“しなければ」と。

「”それ”が射るのです」と彼は答えた。

「そのことは今まですでに二、三回承りました。

ですから問い方を変えねばなりません。

いったい私がどうして自分を忘れ、放れを待つことができましょうか。

もしも“私”がもはや決してそこに在ってはならないならば。」

「”それ”が満を持しているのです。」

「ではこの”それ”とは誰ですか。何ですか。」

「ひとたびこれがお分かりになった暁には、あなたはもはや私を必要としません。

そしてもし私が、あなた自身の経験を省いて、これを探り出す助けをしようと思うならば、私はあらゆる教師の中で最悪のものとなり、教師仲間から追放されるに値するでしょう。

ですからもうその話はやめて、稽古しましょう。」


”それ”とは多分いつも指導されている”あれ”のことだと思います。

合気の稽古の場合は”それ”だけでは相手が動きませんが、”それ”なしでも動きません。

しかし、”それ”がある、なしでは明白な違いが有ります。

合気の稽古においても、”それ”を追求するのが稽古の目標の一つだと思います。