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「拳聖 澤井健一先生」

2015年09月30日 20:56

今日は、「氣の力を求めて その2」で紹介した「拳聖 澤井健一先生」 佐藤嘉道氏著 1982年2月 スポーツライフ社 を読み返しています。


この本は私の人生に大きな影響を与えた本の中の一冊です。



澤井健一先生は、中国武術「意拳」の創始者である王向斉師の下で修行を重ね、日本に帰国後、大気至誠拳法(太気拳)を創始された武術家です。


今回は、私の若き日に、私が目指すべき老人の姿を教えてくれた澤井先生の言葉を紹介したいと思います。


少し長いですが引用させていただきます。


「年老いて光るもの」


人間の一生は、長いようでいて段階的、たとえば幼年時代、青年時代というように分けると短いものである。


若いうちは無我夢中で過ぎていってしまうが、ある年齢まで来ると淋しいものである。


さらに悪いことには、その淋しい状態を若い時には分からないということである。


生涯の大半を仕事に生きる人間にとっては、その現役を退く時、誰でも迷いがあるものだ。


すなわち、会社でも定年になり退職すれば、次の日には何かしなければならない。


誰でもが若い時には、六十代に近づけば、それを人生の終末だと考えている。


これは大きな誤りである。


これもまた、人生の一段階にすぎないのである。


五十五歳からでも、六十歳からでも(たとえ退職しようとも、たとえ伴侶が死のうとも・・・・)人間は、生が終わるまで生きなければならない。


そこに大きな問題がある。


老年を孫の面倒をみることや、庭いじり、散歩などで平穏無事に過ごすことによって満足できるという人もいる。


しかし、わたしはこの年齢だからいうのだが、そんな余生を送る人間にはなってもらいたくない。


なぜなら、若い時も、年老いても同じ人生に変わりはない。


燃え尽きるまで、生き生きとしている人間の方が美しい。


それには、若い時も年老いた時が来ることを考えて行動しなければならない。


年老いてから何かをしようとしても簡単にできるはずがない。


身体も昔のように動ける訳ではないので、旅行をしたとしてもすぐに疲れて、美しい景色に感動することさえ薄らいでくる。


やはり若いうちからの準備が必要なのだ。


この準備を怠れば、死を待つだけの老人となる。


こういう老人にだけは、わたしはなりたくない。


人間は、普通に生活だけしていると五十代にはもう若者に相手にされなくなる。


いわば人間社会で道の端に置かれたようなもので、さらに六十代になれば、完全にそうなる。


ひどい場合には話にも加われなくなり、「どうせ老人だから」と行動範囲も狭くなってしまう。


しかし、年老いても社会福祉とか若者の指導などで生き生きと活躍している人がいる。


そんな人になりなさい。


そういう力を持てる人になりなさい。


そこには光がある。


輝いているものがある。


君達が太気拳を学べば、光あるものになれることを私は約束する。


武術の先生を評価するのはむずかしいことではない。


話だけの先生もいる。


しかし、実際に動いてみればすぐにその先生が、どのくらいの力があるか判断できる。


昔がどうだったか(若い頃は強かったなどということ)というのは問題ではない。


問題なのは、現在どれだけの技を持っているかということである。


現在動ければ、若いものを指導できる。


そういう世界である。


すなわち、人生の最後のご奉仕も出来るというものである。


若者と接していれば、身体は年老いても精神は年をとらない。


年老いて活躍できる人と、若者にも相手にされない死だけを待っている人では天と地の差がある。


そして、その年老いてからの人生というか、期間は意外と長いものである。


「年老いて光るもの」・・・・・・・ぜひ、そのことを理解して身につけていただきたい。


(澤井先生が67,8歳頃のお話)


三十四、五年前の話ですので、今の年齢の感覚とは十歳以上の違いが有るようには思いますが。


私は、恥ずかしながら腰が引けて太気拳に出会うことはありませんでした。


しかし、このような老人になりたいという思いを持ち続けたおかげで、あの苦しい基本功に耐えて、氣の力・合氣の稽古を続けることができ、現在に至っています。

 




武道の原点

2015年09月28日 21:39

今日はスーパームーンだそうです。


窓の外へ目をやると、雲の隙間からいつもよりひときわ大きく明るいお月さまが見えます。


空気が澄んできれいです。


秋の夜長、昔購入した武道・武術関係の本をいろいろと引っ張り出して、暇にまかせて読んでいます。


今読んでいるのは、心道流空手、宇城憲治先生の「武道の原点」 2000年6月 合気ニュース刊。


武道に対する姿勢、技術等に関し参考になることが満載です。


久しぶりに読んで、心に響いた部分を抜粋して紹介したいと思います。


「今は、力を抜くことを心掛けているのですが、まだまだパワー的な力に頼ろうとする時があります。


今より力が抜けるようになれば、もっと自然体の技、瞬発力が出てくると思っています。


ですから年をとるほど楽しみになってくるわけです」 17p


この文章は1994年頃の「季刊合気ニュース」のものだということですので、今から21年ほど前のことです


誰でも最初から達人でないのは分かっているのですが、宇城先生でもこのような時期があったのかと思うと、何かうれしいような気持ちになるとともに、先生が身近に感じられます。


「重心、丹田、柔らかい力・・・など武術にとって重要な語句は、言葉としてはありますが、実在していません。


しかし、認識できる人には重心、丹田・・・などが実在します。


たとえば「柔らかい力」が実在すると、相手に力を感じさせずに倒したりすることができます。


また相手が押してきても、こちらが相手の力をゼロの状態にすることによって相手は力が入らず押せません。・・略・・


これは「柔らかい力」が認識できており、かつ実在するから可能なのです」 62p


実在しないものを実在するようにするのが稽古だと思います。


「一触によって相手の力量は全部わかります。


また一触を通じての指導は、「できる」という裏付けが自分になければならない。


それだけに厳しい世界です」 139p


手首を掴んだり掴まれたりの一瞬の接触によって、相手の技量は全てわかります。何かをするまでも有りません。


「「できる」という裏付けが自分になければならない」という言葉を肝に銘じます。


「武術というのはできるかできないかが実にシンプルで、やってみればすぐに答えが出てしまいますね。


できるかできないかに尽きる武術の世界には曖昧さはありません」 153p


白黒が瞬時にわかり、文句をいう余地のないところが気に入ってます。


出来ないのは自分の技量未熟・稽古不足です。


「「百見は一触にしかず」です。


この一触をもって教える、学ぶことが大事です」 156p


何事も体験しなければわかりません。


「武道でいう真の力は力のない力である。


それは力の抜き方ができて初めてわかる。


さらにそのことによって小が大に勝つという可能性の認識ができあがってくる」 198p


まだまだ、力の抜き方ができません。


力のない力を求めて努力します。





ごあいさつ

2015年09月04日 10:45

こちらで新たにブログを始めます。

よろしくお願い致します。

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